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<ノベル>
ふと、朝霞須美は顔を上げた。
シャープペンを持ったまま、その端正な顔を目の前にある参考書と辞書に向けた。視線の意味は特にない。ただ前を向いたら机の上にきちんと並べられたそれらが視界に入ったからだ。
明日の授業の予習をしていた時に何故今須美の頭を占めることを考えてしまったのかは、本人にも判らない。さながら天啓の如く、漠然と“降りて”きたのだ。
――そうだ、私は。
改めて自覚し、その気恥ずかしさに僅かばかりに頬を染める。机の上で大人しく眠っていたリエートが、主人の変化に気が付いて目を覚ましたらしく、そのつぶらな瞳をじっと須美に向ける。彼は普段警戒心が極めて強いが、朝霞家の人間には懐いており、なかでも須美にはかなり甘えている。
その辺りもまた須美は可愛いらしく、軽く微笑んで軽くリエートのぽやっとした腹を優しく突く。彼は満足しているようでやがてまた眠りにつく。
須美は気を取り直してノートと教科書に向かう。
数学の問題は得意なわけではないが、決して嫌いではない。まるでパズルの様に解いていく。とりあえず今夜は解き、解説は授業を聞けばいいだろう。
―もしこれが世界史だったら、あの人はどんなこと言うかしら……
また突然浮かんだ感情に慌てて頭を振ろうとするが、またリエートを起こしてしまう、と軽く頬を叩いて気を落ち着けた。
告白をするとか、そんな事は考えてはいない。むしろ考えられない。たった今、須美は自分の感情に気がついたのだから。
同級生に恋愛をしている子達はそれなりにいる。女子高だから共学校程の出会いは無いが、中学時代の同級生や友人の友人、それなりに交流はあるようだ。
別に恋人が欲しいと思ったことはない。恋愛に興味が無いわけではなくて、今はヴァイオリンの方が大切だということだけだ。
だから自分にそういった恋愛感情というものが芽生えても戸惑うだけで、どうしていいかも判らない。誰かに聞くのも気恥ずかしくて耐えられそうには無い。
なのでもう少しこのまま、と三度須美は気を取り直して数字のパズルに意識を向けた。
「よう、朝霞」
「……こんにちは」
気持ちに気付いてから間も無くの日、二者面談の都合で須美達二年生の時間割が変更になってしまい、レッスンまでの時間がだいぶ空いたから、何となく−もしかしたら、無意識の意識−で、セバスチャン・スワンボートが店番をしている冴木古書店に足を向けた。
セバスチャンは須美に気が付き、殆ど覇気を感じさせないがその代わり気さくで気取らない雰囲気が漂う声で声をかけた。
古書店の雰囲気も、須美は好きだ。自分の通う学校の古めかしさとは種類の違うレトロさが心地良い。何時来ても相変わらず閑散としているが、セバスチャンは勿論、店主も殆ど気にしていないらしい。
他所事ながら(経営は大丈夫かしら)と些か不躾な疑問が幾度も頭を過ぎった。だが困窮した様子は全く感じないので、大丈夫なのだろう。
ヴァイオリンケースと共に欠かせない、品のいいデザインの通学バッグには、調理実習で作ったギモーブが入っている。
母親が料理上手でもあるし、まだ高校生だから、須美は然程料理はしない。夕飯の手伝いをする事もあるが、刃物等はあまり持たない。万が一指に傷が付いたら、ヴァイオリンの音が変わる。
お菓子作りは滅多に刃物を使わないから、子供の頃から母親とよく作った。
このギモーブはクラスメイトと作ったし、味見もして、大成功だった。
なので食べさせても何の問題も無い。甘いものを毛嫌いしているという事も聞いていない。
それなのに何故、こんなに緊張しているのだろうか?
須美は目の前に居るセバスチャンをじっと見た後、近くの椅子にぽすんと腰を掛ける。度々訪れるようになってからの須美の定位置だ。
長い沈黙。気まずくは無い。かなり居心地は良い。
古びた紙の香りと乾いた紙が少しづつぱらりぱらりと捲られていく音。まるで魔法が掛けられてから騒々しさと縁が切れない銀幕市とは別世界の様だ。
「……そういえば、今日は早いな。学校はもう終わったのか?」
あまり古ぼけてはいないが、真新しいとも言えない本を読み耽っていたセバスチャンがふいに須美に声を掛けた。静止した世界にまどろんでいた須美は急に現実に引き戻され、はっと顔を顔を上げる。
セバスチャンは前髪に隠れた目であるにも関わらず、不思議そうに須美を見た。珍しくぼーっとしている様に見えたのだろう。
「え、ええ。学校側の都合で」
「そうか、学生ってのも自由奔放って訳でもないんだな」
かるく笑ってまた目を本に落とす。
何を読んでいるのだろう、と体を斜めにして表紙を確認する。
が、先に気が付いたセバスチャンが読みかけのページに指を挟んで本を閉じ、須美に表紙を見せる。こっそりとしたつもりが、見破られて正直面白くは無い。いつも冷静な態度を崩さないが、実はかなりの負けず嫌いなのだ。
「……アクロイド殺し」
「前にあんたがミステリっつうのが好きだって言ってたろ? だから読んでみた」
「面白い?」
「おお、今んとこな。……朝霞は?これ好きじゃないのか?」
「いいえ、かなりお気に入りの作品よ。……犯人がいが……いえ、何でもないわ。お楽しみに」
「何デスカその“いが”って!?」
何処まで読んだのかと覗き込めば、まだ1/3も進んでいなかった。セバスチャンは読むのが遅いわけでもないので、読み始めたばかりなのだろう。
セバスチャンだから、というわけでは無い。断じて無いが、やはり同好の士が増えるのは嬉しい。同級生で読書好きの子は大抵恋愛小説絵を好んでいる子が多いので、どの作品のトリックが良いか、あの作品は登場人物の心理描写が秀逸、と語り合えないのが若干物足りない。今はインターネットがあるが、須美はそれほど興味が無いので、授業で習う以外は触れる機会は殆ど無い。
徐々に会話のレスポンス期間が長くなり、やがてセバスチャンは再び黙々と読書に没頭した。
須美も手近な所にある、一昔前のノンフィクション映画の原作本をパラパラと捲る。生まれる前の作品なので見たことは無いが、映画のタイトルは知っている。一度観てみたいと思いながらも、DVDはおろかビデオでも見つけられた事がない。
乱雑に置かれている割には大事にされているらしく、表紙も綺麗なままだし、帯も破れては居ない。帯の絶賛の評価と裏表紙のあらすじが興味をそそる。
値段は然程高くなく、無理をしないで買える。
高校に入学したときに親戚が買ってくれた洗練されたデザインの腕時計が、そろそろ出ないとレッスンに遅れる時間を示している。
「あ、私そろそろお暇するわ。……そうだ、これ。貴方にあげる」
バッグの中から、そっとギモーブを取り出し、些かぶっきらぼうにセバスチャンに渡す。当の本人は声を掛けられて本から顔を上げたが、急に振ってきた“ギモーブ”というシロモノに、隠されて見えない眼を白黒させている。驚いたらしい。
「え。あ、あぁ…っとありがとな?」
「なんで疑問系なのかしら……?」
「や、なんとなく?」
「べ、別に貴方だけのために作った訳じゃないんだから。気にしないで。調理実習で作ったものだし…味も問題ないわよ」
「チョーリジッシュウ」
セバスチャンの居た世界には調理実習は無かったらしい。それについて軽く説明をし、ギモーブの事も話す。須美の通う高校の家庭科教師は中学までフランスで過ごしたらしく、簡単なフランス菓子をよく授業に使っている。ギモーブは、早い話がマシュマロの事だ。
ハートの型もあったが、妙に照れくさくなってしまったので、シンプルに丸と星型のを用意した。やたらと意識していけない。
セバスチャンが興味深げに袋に入ったままのギモーブを掲げてみたりくにゅっと揉んでいたりするのがいやに恥ずかしく、須美は慌てて立ち上がり、「それじゃ」と言って、逃げ出すように古書店から出て行った。
「あ、おい! …気をつけてなー」
走り去った須美の背中にセバスチャンはあまり大きな声を出さず、聞こえてればいいか、くらいの感覚で声をかける。
前々から思っていたが、女子高生というものはなかなかに忙しい様だ。
またポツンと一人になった古書店で、本に意識を戻す前に、ギモーブが入った袋を開けた。袋越しに触るよりもっと異質な触感がした。硬いようでふにふにと柔らかく、口に放り込めば噛める。
少々甘味が強いが、立て続けに沢山口に入れなければ程よい甘さを保てている。
セバスチャンは口の端を軽くあげてご満悦そうに二つ目のギモーブを口に放り込んだ。三個目は珈琲に入れようとページを捲りながら決意する。
須美はよくこの古書店を訪れるから、次に着た時の為に読了しておきたい。
何時も落ち着いていてクールな表層を解かない割りに、ふいに出てくる歳相応の表情が意外と似合っていることにセバスチャンは気がついている。
つい内容に没頭し、一旦を閉じるのが惜しくなったので本を片手に珈琲を淹れに行ったら、見事に足に零して絶叫してご近所に知らしめた。しかしご近所さんは「いつものことか」と特に取り合わなかったそうな。
「どうして止めるの!」
「どうしてって、そりゃ、あんたは女の子だろ?」
激昂する須美を困惑したセバスチャンが何とか思い止まらせようとしている。
「私以外の女の子も行くわ!」
掴まれていた手首を、思い切り振り放す。セバスチャンの力では難なく振りほどかれたが、勢い勇んで先に進もうということもしない。反対されたのが納得できないのだろう。それも、“女の子だから”という理由で。
銀幕市に脅威と不安を齎す“穴”への探索チームに立候補しようとしたら、セバスチャンが珍しく引かない調子で反対してきた。まさか反対されるとは思っていなかった。一人で行くわけではないし、スターもGGをつければ安全だからだ。
須美の反論に、セバスチャンは心底困り果てたように、そのぼさぼさの頭をかいた。
(……困らせたいわけじゃないのに。どうして判ってくれないの……?)
段々と悲しい気持ちになってくる。穴探索に行こうとしたのは、決して物見遊山では無い。戦うことは須美にはできないが、探索して情報を持ち帰ることは出来るはずだ。穴を何とか片付けることが出来れば、セバスチャンがキラーに堕ちる可能性もきっと無くなる。
判ってくれると思っていた、のに。
そう信じているからこそ、反対された事、結果として困らせてしまった事が余計に悲しく、辛く、悔しかった。
「……もし、手に怪我したらどうするんだ?」
反論に詰まる。
ヴァイオリニストは僅かな指の怪我ですら命取りだ。音が変わる。もし大怪我をして何日も弾けなくなったら、当然技術も感覚も滑り落ちる。1ヶ月の努力が簡単に水泡に帰すことも珍しい事ではないのだ。
レッスンを欠かしたことの無い須美にはまだ味わったことの無い経験だが、想像しただけで恐ろしい。
「そんな言い方……」
それしか言い返せない。
貴方が心配だから、と、どうして言えないのかと、自分にも憤る。もしかしたら、もう、会えないかもしれないのに。そのくらい危険な場所に乗り込むのに、どうしてこのぼさぼさ頭はそれを判ってくれないのだろう、と。
「セバンさんだって、危なくない保障なんて、無い、じゃない……」
顔を見ることが出来ずに俯いたまま、せめて行かせる事を止めさせようと試みる。
「俺は大丈夫だ、アイツも居るし。あれだ、友達のついでに俺等の無事も祈っておいてくれな」
アイツとは、二人共通の友人(というか悪友)のキメラの少年のことだ。セバスチャンと共に行くらしい。
だから心配するな、という意味を込めたのか―
一瞬躊躇ったが、セバスチャンは自分の上着で掌を乱暴に拭き、その勢いで、須美の艶やかなな黒髪を驚くほど優しくなでた。
それはまるで大人が幼子にするような優しさであったかもしれないが、彼は彼なりに須美を思いやってのことだった。
零れそうになる涙を必死で須美は堪えた。今泣いたら、余計にセバスチャンに負担をかける。第一悔しい。
頭を撫でてくれている頼りなくも優しい人は、やはり、いつか消えてしまうのだと、この時改めて認識した。
帰ってくると信じたい。
帰ってくると信じるしかない。
「……セバンさん」
「ああ」
「戻ってきたら、大事な話があるの。聞いてくれる?」
「今じゃダメなのか?」
「……ええ。帰ってきたときに。とても大事な」
「判った。必ず聞くよ」
そうセバスチャンが応えたときに、彼を呼ぶ声が須美の耳にも入った。先ほど出た友人のものだった。友人は二人をしばしじっと見つめたが、「じゃあ行ってくるねー」と抑揚の無い、いつも喋り方を聞いて須美はなぜか安心し、帰ってくるのだと、確信した。
ぱち、と目を開けて目覚まし時計を見たら、時刻を告げる五分前だった。
穴探索は無事に終わり、レヴィアタンの恐怖も去り、銀幕市はやっと人心地ついた。
穴探索が終えても、落ち着いて会える機会が殆どなく、今に至る。結果としては良かったのかもしれない。
須美は身支度を整え、学校へと足を向ける。いつもとどこか違う須美の様子に、リエートも両親も首を傾げていたが気にしないことにした。
学校をサボって、という選択肢は無かった。
けれど授業中は気も漫ろで、何度も何度も心の中で練習したにも拘らず、いざ打ち明けようかと思ったら、もっと気の利いた言い方があるのではないかとまた悩んでしまう。
教室から見上げた空はよく晴れて青く澄んでいる。
だからというわけではないだろうが、励まされた気がして、うまく伝えられるような気がした。
しかし世の中そう簡単にはいかないもので。
恙無く授業を終え、古書店までの道のりをゆっくりと進む。早く会いたいのだが如何せん足がうまく動いてくれない。繰り返した言葉も霧散していく。
ぎゅ、とバッグの持ち手を掴む。
――こんな状態は私らしくない。
と、思う。
ただ好きだというだけで、何故こんなに躊躇わなければならないのか。不快な感情をぶつけるのではないのだ。もしかしたらセバスチャンにはそうかもしれないが。
いや。そういうことを考えてたら埒が明かない。
再び思い直す。二、三度大きく被りを振る。
冴木古書店の古ぼけた看板が見えた。それを見て、今の勢いを無くしたらまた堂々巡りで不安に駆られて、結局今日も何も言えない事になる。
「……よし」
須美はぺち、と軽く頬を叩いてからきゅっと前を見据えて走り出した。
セバスチャンは少し暑い日差しの中で、本を読んでいた。残りは後数ページ。本編は読み終えて解説や他の小説のあらすじ等を読んでいるのかもしれない。
時計を見ると、午後4時を示している。
須美の事を思い出す。
大事な話が、と言われて、だが結局話せていない。
(……なんか怒らせるようなことしたか? いやでもあれは納得してたし…っ)
若い女の子から話がある、といわれても、怒られることしか思いつけないのが、セバスチャン・スワンボートという男である。額にほんのり汗が浮かんでいるのは、暑さの所為だけではない。
ギモーブの礼をまだ言ってない。という事に気がついて、あちゃぁ、と頭をかいた。感想を催促するようには思えないが、手作りのものを貰って何も礼をしないというのは宜しくない。
珈琲に入れてみたらまろやかな味になって、とても美味かった。マシュマロを買ってきて試したが、どうにもしっくりこない。また作って欲しい、なんて心密かに思っている。
一回り以上年下の須美と話すことが楽しみになっている。まだ十代半ばを少し経過しただけでとても落ち着いているのに、ツンデレーと呼ぶと怒るところとか、かなり負けず嫌いな辺りも、好感を持っている。
「セバンさんッ!」
「のおぅっ!?」
突然の闖入者は当の須美だった。
爽やかな夏のセーラー服に身を包み、それが彼女の品の良さを際立たせていて、迂闊にもセバスチャンの心臓は驚き以外の理由で跳ね上がった。
走ってきたらしい須美は肩で大きく息をした後、きっとセバスチャンを見据えて、
「…っ、好きですっ!」
と、言った。セバスチャンは持っていた本をポトリと落とした。
「……っと、あー……」
いやまさか、と混乱しかけている頭を必死で平行に保とうと須美を見るが、真剣な……切なくなるほど真剣な表情だった。
「俺も好きだぞ、アクロイド殺し! いやー、朝霞の言う通り、意外な犯人だっ……た、よな……」
落とした本を拾ってわざとらしく明るく調子でページを捲る。
だが。
そんな事で誤魔化せるような、その程度の、軽いものではない。それは判っていた。判っているのに、つい軽口が出てしまった。
一瞬の様な、永遠のような、どちらともつかない様な沈黙が流れる。
外からの喧騒もなぜか耳には入らず、それなのに時計が時を刻む音だけはやたらと響く。
「……すまん」
静寂の中に、一滴、水が落ちる。波紋はゆっくりと確実に広がる。
須美がセバスチャンを見る。
その顔を見て、意味を理解した。謝罪の言葉が出た理由を。
それが許せなくて、ぎゅっと力を込めた手を解き、思い切り、平手でセバスチャンの頬を叩いた。
ぱぁん、と乾いた音が古書店に響く。
体を微かに震わせた須美は、震える声で小さくセバスチャンを非難して、そのまま駆け去った。
意気地なし。
呆然として頬を押さえたセバスチャンは、意気地なしと言われた意味を反芻し、呆然と立ち尽くす。
痛みはあるが、それもやがて引いていく。
見抜かれたのだ、あの目が合った瞬間に。
須美が嫌いだから、恋愛感情を持っていないから出た言葉ではなかった。
大切だからこそ、いずれは消え去る運命の自分では、と思った。
友達としての別れも辛いのに、恋をして、唯一無二の存在となって、そして二度と会えなくなると言う事はどれだけ辛いだろう。残されるのは自分ではなく、須美なのだ。何時だって残される側が辛い。
危ない目には合わせたくない、辛い思いはさせたくない。大切だから。
そう思ったからこそ、穴探索も止めさせたし、今もすまんと言った。
セバスチャンなりに配慮したつもりだった。彼女は聡明な子だから、判ってくれると思っていた。
引っ叩かれた時の須美の顔を思い出す。
悔しいとか怒っていたりとか、そういった雰囲気ではなかった。
けれどやはり、まだ歳若い須美に永遠の喪失を自分の所為で味あわせる事は、セバスチャンには出来なかった。須美に辛い思いをさせるのならば、嫌われた方がマシだと、そう思ったのも偽らざる本音だ。
「……もう少し、言い方ってモンがあったのかもな」
頬の痛みは殆ど取れたが、心が重く苦しく、細く鋭い棘が突き刺さったまま、セバスチャンは嘆息した。
傷つけたく無かったのに。ただそれだけだったのに。
須美は自宅に帰り、母親の顔を見ず挨拶もせずに部屋に向かう。心配そうに母が声をかけたが、なんでもない、と誤魔化した。
部屋に戻ると寝ていたリエートが小さな尻尾を振って喜んで主を迎えたが、すぐその異変に気付いてじっと須美を見つめた。
電気もつけずにドアを閉めて、鍵をかける。
その途端、涙が後から溢れてきた。
拭っても拭ってもとどまる事は無く、須美の意思を無視して零れ落ちる。
ヴァイオリンの練習の為にと防音された部屋だが、完璧なわけではない。母に聞かれない様に、声を出さず、僅かな声も漏れないようにとベッドにうつ伏せて、泣いた。
声も出さずに泣くことが、こんなに心も体も辛いだなんて、須美は知らなかった。
無理矢理声を出さないように押し付けているから、喉は痛いし気管支もひゅうひゅうと音を出して、胸を圧迫させる。
けれど、それ以上に心が痛い。
「すまん」の一言は、須美を嫌ってのものではないことくらい判っている。だから辛い。
スターと知らないわけじゃない。その程度の理由で諦めるくらいなら、初めから告白したりはしない。いずれ消えてしまうかもしれない。だけど、今そこにいて、話して、たまに触れて、生きている事は確かなのだ。それなら消えるまで、消える瞬間まで側にいたい。
居なくなってしまったら、きっと悲しい。今は想像しか出来ないけれど、辛い。けれどそれを乗り越えるだけの思い出や気持ちを作っていきたかった。
それなのに、謝られたら、何も言えなくなってしまう。
こんな事なら、嫌われた方がずっとマシだった。好きじゃないよと言われる方が、ずっとずっと。
リエートはただそっと須美に寄り添って、つぶらの瞳で見つめている。涙の理由は判らなくとも、自分に出来ることはそれだけだと理解しているのだろう。
時折僅かに漏れる嗚咽を聞いていたのは、傍らのリエートと大切に置かれているヴァイオリンだけだった。
その日、十四年間ではじめて、須美はヴァイオリンに触れずに過ごした。
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クリエイターコメント | はじめまして、この度はオファー頂き、誠にありがとうございました。 この度は大変なご迷惑をお掛けして申し訳ございませんでした。
オファー内容を拝読して、うっかり涙ぐんだのはここだけの話です。 お互いを大切に思うからこそのすれ違い。そんな印象を受けました。
お二人に幸多からんことを祈りつつ。 重ね重ね、この度は誠にありがとうございました。 誤字・脱字、言葉遣いの違和感等ございましたら、善処させて頂きますので、遠慮なくご連絡下さいませ。
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公開日時 | 2008-07-31(木) 18:30 |
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